項羽

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    項羽

    項籍
    項籍(こうせき、紀元前232年 - 紀元前202年、は、秦末期の楚の武将。
    秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時西楚の覇王(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。
    その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。
    姓は項、名は籍、字が羽である。
    以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。
     
    生涯
    挙兵まで
    項羽は楚の将軍であった項燕の孫であり、項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。
    項羽は両親を早くに亡くしたため叔父の項梁に養われていた。
    『史記』にその聡明さを示す逸話がある。
    ある時項梁が項羽に学問を教えようとすると項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。
    剣術のように一人を相手にするものはつまりません。
    私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで兵法を項羽に教えた。
    項羽はほぼその意を知り、また兵法を学ぶのに境を付けること(兵法の勉強に区切りをつけること)には、首を縦に振らなかったという。
    成人すると、身長が8尺(約184センチ)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。


    反秦軍

    反秦軍
    秦末期、陳勝・呉広の乱が起きると、項羽は項梁に従って会稽郡役所に乗り込み、郡守である殷通をだまし討ちした後に襲いかかってきた殷通の部下数十名をひとりで皆殺しにし、会稽の役人たちは項羽の強さに平服、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。
    陳勝が敗死すると項梁は范増から教えを請い旧王家の末裔を探し出してこれを「楚王」に祭り上げて大いに威勢を奮ったが、秦の章邯の奇襲によって戦死する。
    このとき、項梁の戦死を恨んだ項羽は、章邯が居城としていたが既に去っていた定陶城の住民を皆殺しにしている。
    項梁死後の楚軍の指揮について会議が行われたが、結局斉の使者に項梁の戦死を予言した宋義が楚軍を指揮することになった。
    宋義は趙の張耳、陳余の救援要請を受けて趙へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまい、兵が飢えてしまった。
    項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言う宋義に納得できなかった項羽は彼を殺害し、実質的な楚軍の総大将となった。
    また、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていった、宋義の息子の宋襄も追いかけて殺害した。
    そして、項羽は咸陽へ向けて北進を開始した。
    途中、鉅鹿を包囲していた秦の名将・章邯が率いる20万を超える大軍と決戦した。
    鉅鹿の落城は時間の問題と見られており、趙救援に駆けつけていた各国の軍は全く手を出せず、傍観していた。
    しかし項羽は、まず秦軍の食料運搬部隊を襲い、糧道を絶って秦の大軍を飢餓に追い込み、士気を低下させた。
    次いで項羽は、川を渡った後に兵士に三日分の兵糧のみを与え、残りの物資と共に船を沈めた。
    三日で決着が着かねば全滅あるのみ、と決死の覚悟をさせたのである。
    そして項羽は自ら先頭に立つと、包囲軍の大将である王離の軍に突撃をかけた。
    項羽の並外れた武勇と決死の兵たちは、数では5倍強の優勢にあった秦軍を潰走させ、王離を捕縛した。
    更に項羽はその勢いのまま秦軍を攻め、総大将の章邯は降伏を申し出、戦いは終わった。
    項羽率いる楚軍の凄まじさを目の当たりにした各国の軍は、項羽を恐れ自ら進んでその傘下に入った。
    こうして項羽は名実ともに反乱軍の総大将となった。
    この時項羽は20万以上の秦兵を捕虜として得たが、暴動の気配が見えたので新安という所でこれを全て坑(穴に埋めて殺す事)した。
    項羽は関中に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が関中に入っていた。
    功績を横取りされたと感じた項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとした。
    劉邦は慌てて項羽の伯父項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。
    これが有名な鴻門の会である。


    范増
    范増
    范 増(はん ぞう、紀元前279年? - 紀元前204年)は、秦末期の楚の項梁と項羽の軍師である。
    項羽からは亜父(あふ または あほ、父に亜ぐの意)と呼ばれ敬愛された。
    居巣(現安徽省巣湖市居巣区)の人。
    誰にも仕えずに暮らしていたが、陳勝・呉広の乱で項梁が挙兵した時、既に70歳になっていたが、彼の元を訪れて「かつての楚の懐王の子孫を楚王として立てるべきだ」と進言した。
    項梁はこれを採用して心を探し出し、祖父と同じ懐王を名乗らせて擁立した(後の義帝)。
    その後は項梁に仕えていたと思われるが、『史記』の記述では懐王を立てた後は、鴻門の会まで登場しない。
    項梁が秦の章邯軍によって戦死した後、項羽は(跡を継いで総大将となった宋義の指揮下に入って)秦に攻められている趙の救援に向かい、劉邦は別働隊を率いて関中入りを目指した。
    この時、懐王より「最初に関中に入った者を関中王とする」との約束が交わされた。
    項羽は途中で進軍の方針を巡って宋義と対立し、これを斬って軍の指揮権を掌握し、章邯軍を打ち破って関中へ向かう。
    しかし、その間に咸陽一番乗りの手柄は劉邦に奪われてしまった。
    劉邦が咸陽で略奪などを行わなかったことを、范増は「天下を狙う大望有るゆえ」と察知し、劉邦を殺すよう項羽に進言した。
    項羽も最初は激怒して劉邦を殺そうとしていたが、親族である項伯のとりなしにより、劉邦と面談することにした。
    有名な「鴻門の会」である。
    この会の途中で、范増は幾度も項羽らに劉邦暗殺を行うように指示したが、張良や項伯や樊?などに妨げられ、また項羽も決断できなかったため、結局劉邦を生きて帰らせてしまう。
    会の後で、范増は劉邦を暗殺できなかったことを悔しがり「豎子、ともに謀るに足らず!」(小僧とは一緒に謀を行うことが出来ない!)と叫び、劉邦から贈られた器を叩きつけて壊した(豎子とは項羽を指す)。
    その後、項羽が秦を滅亡させて諸将を封建する際には、「劉邦は危険だ」と主張して辺境の地(漢中)へ追いやり(これが左遷の故事となる)、また劉邦が討って出てきた場合に備え、秦の故地である関中には章邯ら旧秦の将軍たちを配置した。
    だが、劉邦は韓信を得ると関中へ攻め入って章邯らを滅ぼし、楚漢戦争が激化。
    范増も軍師として項羽を支えるものの、項羽は?陽の包囲戦(?陽の戦い)の際に劉邦の軍師陳平が仕掛けた離間の計にかかり、范増たちの忠誠を疑うようになる。
    これに怒った范増は項羽に「天下の形勢はおおむね定まりました。後は君王(項羽)自ら行ってください」と引退を宣言、帰郷する途中で背中に膿が溜まる病気にかかり死亡した。
    紀元前204年のことである。
    范増を失った後の項羽は、いくら戦闘に勝っても劉邦を滅ぼすことが出来ず、最終的には垓下の戦いで敗死する。
    劉邦は楚漢戦争後に、「自分は張良・蕭何・韓信を使いこなせたが、項羽は范増ひとりすら上手く使いこなせなかった。これが項羽の滅亡した原因である」と語った。
    ちなみに「史記集解」によると、范増の故郷ではその無念の死を弔うために毎年祭事を続けていたと伝えている。
       

    陳勝・呉広の乱
    陳勝・呉広の乱
    陳勝呉広の乱(ちんしょうごこうのらん)とは、中国秦末期に陳勝と呉広が起こした、史上初の農民反乱。
     
    蜂起
    紀元前210年に始皇帝が崩御すると、その末子である胡亥が兄の扶蘇を謀殺して即位した。
    その元年となる紀元前209年の7月、陳勝と呉広は辺境守備のために徴発された農民兵900名の引率の補佐を任され、漁陽(現在の北京市北部の密雲県)へと向かっていた。
    しかし、その道中、大沢郷(現在の安徽省宿州市の東南部)にさしかかったところで大雨に遭って道が水没し、期日までに漁陽へとたどり着く事が不可能になる。
    秦の法ではいかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首である。
    期日までに着けない、そう判断した時点で陳勝と呉広は反乱を決意し、引率の役人を殺そうと画策する。
    二人は筮者を訪ね、卦を立ててもらった。
    成就するか否かを見てもらうためである。
    「事は成るが、あなた達は鬼になるだろう」卦はそう出た。
    「鬼になる」とは何なのか。
    二人は考えたすえに、「鬼神の力を借りて人を威服せよ」ということであるという結論に到った。
    それに従い、まず「陳勝王」と朱書きした布切れを魚の腹に入れておいた。
    何も知らない兵卒は魚を料理しようとしてその布切れを発見し、ひどく気味悪がった。
    さらに、呉広が宿営の近くにある祠に潜伏し、夜中に狐火を焚き、「大楚興らん、陳勝が王たらん」と狐の鳴き声を真似て叫んだ。
    兵卒たちはこれを聴いて以来、陳勝を見ては恐れ、噂をしあうのだった。
    ちなみに、卦の本当の意味は、「反乱は成功するが、あなた達は幽霊(中国語の鬼は幽霊の意味)になる」。
    すなわち、死んでしまうだろうという意味であった。
    計画の下準備を終えた二人は、ついに決行にうつる。
    引率の将尉二人が酒に酔ったところを見澄まして呉広が彼らの面前に歩み寄り、聞こえよがしに「俺は逃げる」と繰り返した。
    酒に酔った将尉は激怒し、呉広を鞭で打ち据える。
    何時の間にか周囲に兵卒たちが寄ってきて、将尉への反感を募らせていった。
    将尉の剣が抜け落ちた。
    呉広は即座に剣を拾いあげ、将尉の一人を斬り殺した。
    すぐさま陳勝が加勢し、もう一人を殺す。
    それから、陳勝は兵卒たちを召集して演説した。
    「俺たちは大雨に降られ、最早期日には間に合わない。期日への遅れは問答無用で斬首だ。仮に殺されないとしても、労役で死ぬのは10人中6,7人であり、労役で死なずとも帰途で死ぬかもしれない。どうせ死ぬのならば、名を残して死ぬべきだ。もとより人間に王侯将相の種族の別があろうか」
    兵卒たちはこれを聴き、一斉に同意を示した。
    この時に民衆の支持を集めるために陳勝は扶蘇、呉広は項燕を名乗った。
    始皇帝の長子にして悲劇の皇太子である扶蘇と旧楚の英雄である項燕は庶民に人気があり、多くはその死を知らずまた信じていなかった。
    二人はそれを利用した。
    彼らはまず大沢郷を占領、それから諸県を攻略し、陳を取るころには兵車600乗・騎兵1000余・兵卒数万の大勢力になっていた。
    陳を攻めた時、郡守・県令は既に逃亡しており、副官が抗戦したがあっという間に陥落した。
    陳に入城した陳勝はここを本拠とし、即位して王となり、国号を張楚と定めた。

    出会い系
    反乱の拡大と章邯の反撃
    「陳勝、蜂起す」。
    この噂が広まると、それまで秦の圧制に耐えていた各地の人民が郡守や県令を血祭にあげて陳勝に呼応した。
    勢いづいた陳勝は呉広を仮の王として諸将を統率させ西へ征かせるとともに、武臣に張耳・陳余をつけて趙の地を略定させ、ケ宗に九江郡を攻略させた。
    魏へは周市が派遣された。
    陳に周章(周文)という人物がいた。
    陳勝は、彼が軍事に練達していると聞きつけると、彼に将の印を与え西進させて秦を討たせた。
    周章は徴兵しながら進軍し、函谷関に到るころには兵車1000乗、兵卒数十万の大兵団となり、かつて何人も敗れなかった函谷関を抜くが、ここに到って秦の章邯の軍に敗れた。
    周章は敗走後も曹陽に拠って秦を防いだが数ヶ月支えたのち陥落し、さらに別の地で秦軍を迎撃するが防ぎきれず、ついに自決する。
    この大敗によって楚軍は戦意を喪失し、ここから張楚はその勢いに翳りを見せ始める。
    趙を平定した武臣は邯鄲に入城すると、独立して王を称した。
    陳勝は怒ったが、ここで趙が敵に回ることは致命的となるので、やむをえずこれを認めた。
    趙王となった武臣は韓広に命じて燕を平定させるが、韓広が燕の有力者たちに奉戴されて燕王となってしまったので、やむなく武臣もこれを認めた。
    また、斉では旧斉の王族である田?が従弟の田栄・従弟の田横らと協力して立ち、魏でも周市が旧魏の王族魏咎を擁立して魏王とし、自身は宰相となった。
     
    呉広・陳勝の死
    呉広はケイ陽を攻めていたが、李由の防戦にあって攻めあぐねていた。
    そのうちに周文は敗走し、秦軍は呉広の軍に迫ってくる。
    呉広の諸将は、田臧を中心としてひそかに陰謀をめぐらしていた。
    「呉広は兵の使い方が下手だ。このまま秦軍と衝突して勝てるわけがない。呉広を殺し、指揮権を奪おう」。
    田臧らは呉広を殺して指揮権を奪い取り、陳勝に呉広の首を送った。
    陳勝はやむなく暗殺を正当だと認め、田臧を令尹(宰相)とした。
    しかし、田臧も章邯の前に敗れ、戦死する。
    章邯の破竹の進撃は続いた。
    各地で反乱軍を破った章邯は、ついに陳勝の本拠である陳にむかって進軍し、まずは張楚の上柱国・蔡賜を討った。
    さらに陳の西方で張楚の張賀と交戦し、陳勝も自ら張賀を援けようと出陣するが敗北、張賀は戦死する。
    12月、ついに陳勝は逃げ出して汝陰へ、ついで下城父へ到ったが、そこで自分の御者である荘賈に殺された。
    陳勝の死後、対秦の戦争は楚の項梁によって引き継がれ、劉邦が武関を破るに及んでついに秦王・子嬰が降伏し、秦帝国(子嬰の代には王国に戻っていたともいわれる)は滅ぶ。
    時に紀元前206年であった。
    しかし、その後も戦乱は終息せず、漢の劉邦と楚の項羽の争い、いわゆる楚漢戦争へと発展していく。
    死んだ陳勝は昜に葬られた。
    諡は「隠王」である。
    のち、劉邦は彼を尊び、その墓所の周辺に民家を置き、代々墓守をさせた。
    出会い系@比較で覇権する。

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