劉邦3

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    劉邦3

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    蕭何
    蕭何(しょうか、? - 紀元前193年)は、秦末から前漢初期にかけての政治家。
    劉邦三傑のひとり。
     
    経歴
    劉邦と同じく沛県の出身で、若い頃からそこで役人をしていた。
    下役人であったがその仕事ぶりは真面目で能率がよく、評価されていたという。
    なお曹参はこの時の部下にあたる。
    秦末の動乱期になると曹参等とともに沛県城でクーデターを起こし、秦政府から派遣されていた県令を殺害、劉邦を後釜の県令に迎えた。
    以降、劉邦陣営における内部事務の一切を取り仕切り、やがて劉邦が項梁、項羽を中心とした反秦陣営に加わり各地を転戦するようになると、その糧秣の差配を担当してこれを途絶させず、兵士に略奪に走るような真似をさせることがなかった。
    また、劉邦が秦の都咸陽を占領した時には、他の者が宝物殿などに殺到する中、ただ一人秦の歴史書や法律、各国の人口記録などが保管されている文書殿に走り、項羽による破壊の前に全て持ち帰ることに成功した。
    これが漢王朝の基礎作りに役立ったと言われている。
    紀元前206年、秦が滅亡し、劉邦が漢王に封建されると、蕭何は丞相に任命され、内政の一切を担当することになる。
    それからまもなく夏侯嬰が韓信を推挙してきた。
    その才能に感じ入った蕭何も劉邦に推挙し、韓信は召し抱えられたが、与えられた役職が閑職だった為に逃げ出すという事件を起こす。
    韓信を引き留めるため蕭何は自ら追いかけ、「今度推挙して駄目であれば、私も漢を捨てる」とまで言って説得する。
    そして劉邦に韓信を大将軍に就かせるよう推挙した。
    劉邦はその進言を受け入れ、大将軍に任命する。
    韓信は家柄も名声も無く、元は楚の雑兵で、漢でも単なる一兵卒だった。
    当然ながら最大級の大抜擢であり、このことからも劉邦の蕭何への信頼の厚さが伺える。
    劉邦が軍勢を率いて関中に入ると、蕭何もこれに従い関中に入る。
    楚漢戦争が激化し、劉邦が戦地に出て関中を留守にすると、王太子の劉盈を補佐しながらその留守を守った。
    関中においてもその行政手腕は遺憾なく発揮され、関中から戦地に向けて食糧と兵士を送り、それを途絶えさせることなく劉邦を後方から支え、しかも関中の民衆を苦しめることもなく、名丞相として称えられた。
    紀元前202年、楚漢戦争が劉邦陣営の勝利に終わると、戦功第一には、戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて蕭何が選ばれた。
    劉邦も、蕭何の送り続けた兵糧と兵士が無ければ、そして根拠地である関中が安定していなければ、負け続けてもなお最終的に勝利することができなかったことを理解していたのである。
    劉邦が皇帝となり、前漢が成立すると、蕭何は引き続き丞相として政務を担当することとなり、長年打ち続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事することとなった。
    紀元前196年、韓信が謀反を企てていることを知ると、策謀を用いて誘い出しこれを討った。
    韓信は国士無双と称された程の名将であり、慎重でもあったが、蕭何だけは信用していたために油断したのである。
    この功績により、臣下としては最高位の相国に任命され、「剣履上殿」「入朝不趨」「謁讚不名」等の特権を与えられた。
    しかしこの頃から、劉邦は蕭何にも疑惑の目を向け始めた。
    これについては楚漢戦争の頃からその傾向があったため、蕭何もそれを察し、戦争に参加出来る身内を全員送りだし、謀反の気が全く無いことを示していた。
    しかし、劉邦は皇帝となってからは猜疑心が強くなり、また韓信を始めとする元勲達が相次いで反乱を起こしたことで、蕭何に対しても疑いの目を向けたのである。
    長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できることも、危険視される要因になった。
    蕭何は部下の助言を容れて、わざと悪政を行って自らの評判を落としたり、財産を国庫に寄付することで、一時期投獄されることはあったものの、何とか粛清を逃れることに成功した。
    このことから蕭何を保身主義者と見る向きもあるが、むしろ新国家・漢を守るため、いらぬ波風を立てないように苦心した結果が、この一連の行動であったと考えるのが妥当だろう。
    劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなった。
    死に際して後継として曹参を指名している。
    のちに曹参は、政務を怠っていると非難されたとき、「高祖と蕭何の定めた法令は明瞭明白で世を治めており、変える必要がありません。
    我々はあまり細々とした変更をせず、それをただ守れば良いのです」と時の皇帝に述べ、皇帝もその言葉に納得している。
    蕭何の行政手腕と判断力が優れていたことが伺える。
    漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は一部の例外を除いて蕭何と曹参以外には与えられず、「それだけの功績のものがいない」として任ぜられることがなかった。
    また、蕭何の家系は何度も断絶しているが、すぐに皇帝の命令で見つけ出された子孫が侯を継いでいる。
    後世における蕭何の評価の高さが伺える。
    ちなみに、南朝の斉を建国した蕭道成は蕭何の子孫であると自称していた。


    英布

    英布
    英布(えいふ、生年不明 - 紀元前195年)は、秦末から前漢初期にかけての、武将、政治家。
    楚漢戦争期の九江王。
    前漢初期の淮南王。
    通称黥布(げいふ)。
    六(りく、現安徽省六安県)の人。
     
    略歴
    少年時代、ある占い師から、その人相について占われ、 「あんたは、いずれ刑罰を受けることになるが、その後に王になるだろう」 と、予言された。
    それからしばらくして、本当に刑罰を受け、刺青を入れられると、 「これで、俺は王になれることが決定したぞ」 と、かえって喜んだという。
    通称の黥布はこのことに因んでつけられたものであり、日本風に言い直せば「刺青の布さん」ということになる。
    秦末の動乱期に仲間と語らって挙兵し項梁に仕え、項梁の戦死後は項羽に仕えた。
    項羽の下で反秦戦争に従軍し、その先陣として、また汚れ役として活躍(項羽率いる楚軍に降伏した、秦軍20万人を殺害した)、秦滅亡後に項羽の配下では唯一九江王に封建される。
    一説によれば、この直後に英布は項羽の命で義帝を殺害したという。
    しかし、この頃から項羽と何かと対立するようになり、斉の反乱や彭城の戦いで病と称して項羽の救援要請を断っている。
    彭城の戦いの後に劉邦が派遣した説客・随何の説得に応じて、劉邦の配下として参戦することとなる。
    紀元前202年、垓下の戦いで項羽が死に、劉邦が皇帝(高祖)に即位、前漢が成立すると、英布は淮南王に封建される。
    しかしその頃から、劉邦やその妻・呂雉により異姓諸侯王が次々と粛清される。
    紀元前196年の春に韓信が、夏に彭越が反乱を企てたとの名目で処刑され、さらに彭越の死体の肉の一部が塩漬けとして、見せしめのために英布を初めとする諸侯王に劉邦から送られた。
    そのことで、英布は「いずれ俺も殺される。
    」と、反乱の準備を整えはじめた。
    さらに英布が自分の側室と通じたと疑い、監視していた家臣の中大夫の費赫が、英布に誅殺されるのを恐れて劉邦に英布の反乱の計画を密告。
    追い詰められた英布はついに同年の秋に謀反を起こした。
    当初は、荊王・劉賈及び楚王・劉交の軍を破り、劉賈を殺すなど大いに気勢を上げ、親征して来た劉邦に対しても劉邦が流れ矢に当たり負傷するなどしたが(のちにこの矢傷が元で劉邦は死亡する)、結局英布の軍は敗れた。
    英布は妻の兄弟である長沙王・呉臣の元へ逃れた。
    だが、関わるのを嫌った呉臣は英布に対し、共に越へ逃れようと偽りの誘いを掛けた。
    これを信じた英布は?陽に至ったが、地元の者に殺された。
    時に紀元前195年のことであった。


    樊カイ
    樊カイ
    樊 (はん かい)、 - 紀元前189年)は、中国の前漢初期の武将。

    劉邦と同じ沛県の人。
    爵位は舞陽侯。
    諡号は武侯。
     
    来歴
    剛勇の人だったという。
    もとは犬の屠殺業をしていた。
    劉邦の反秦蜂起に加わり、生涯仕えて武勲を挙げ、鴻門の会で項羽から身を救うなど活躍する。
    秦打倒の功績で賢成君に封じられた。
    また決起以前より劉邦の妻呂雉の妹呂須(りょしゅ)を娶っていたため、将軍の間でも王室の信頼は厚かった。
    漢王朝成立後は韓王信や韓信の謀反に同調した陳?を討伐して、その功績を挙げる。
    しかし紀元前195年、親友の燕王・盧綰討伐を高祖(劉邦)から命じられるが、ある者の讒言で勅命を受けた陳平によって捕らえられ、周勃と交代される。
    だが、高祖の死によって釈放された。
    孝恵帝6年(紀元前189年)に死去。
    嫡子の樊伉が舞陽侯を継いだが、呂雉の死を機とした政変により、呂氏一族皆殺しの一環として生母の呂須と共に殺される。
    のちに側室の子である樊市人(はんしじん)が侯になった。
     
    鴻門の会
    劉邦が咸陽を攻め落とした後、項羽の軍が函谷関で足止めされた。
    項羽は劉邦が自分を出し抜いて王となる気だと思い、怒って殺そうとした。
    項伯・張良などの斡旋により、鴻門において弁明する機会が与えられた。
    これが有名な「鴻門の会」である。
    樊は参乗(さんじょう)、つまり警護役として劉邦に付き従っていた。
    本営には劉邦と張良のみが中に入るのを許された。
    宴の席で、劉邦を暗殺しようとする剣舞が始まった。
    劉邦の危機を知った樊?は、兵士が止めるのも聞かず本営の中に入り「祝勝の振る舞いがない!」と言った。
    その剣幕に剣舞は中止される。
    項羽は彼に大杯の酒と生の豚の肩肉を与えた。
    樊?は酒を飲み干し、生のままの豚肉を平らげた。
    そして項羽に「咸陽を攻め落としたのは、出し抜こうとしたわけではなく、項羽の来るのを待っていたのだ」と釈明する。
    項羽はこれに黙り込んでしまう。
    その後、劉邦と樊は脱出し、張良が残って詫びた。
    これらにより項羽は劉邦を討つ機会を失い、劉邦は虎口を脱する。
    この功績により劉邦が漢王になって後に臨武侯に封じられた。
       

    周勃
    周勃
    周 勃(しゅう ぼつ、 - 紀元前169年)は劉邦の子飼いの武将でその元勲。
    子は世子の周勝之、条侯・周亜夫、平曲侯・周堅らがいる。
    爵位は絳侯。
    諡号は武侯。
    遠祖は巻(けん)県から沛に移住したという。
    紀元前209年に劉邦が兵を起こした時、劉邦に従った。
    元々は沛で機織業をしており、葬儀屋を副業としていた。
    劉邦が漢王になると彼は武威侯となった。
    劉邦が漢中から出撃する際に先陣を務めて、章平らを破った。
    陳平が劉邦に帰順してきたときに、彼が重用されたことに対して、灌嬰とともに陳平はかつて魏や楚から離れただけでなく、兄嫁と密通したことがあり、さらに賄賂を受け取っている人物なので信用しない方がいいと訴えた。
    劉邦が死去の際「漢王朝を長らく安んずるものは必ずしや周勃であろう」と、呂雉に言い残したとされる。
    劉邦の死後呂雉は自分の一族に優位な事を行ったが、紀元前180年に彼女が死んだ直後呂一族が皇位簒奪を狙っているらしき発言が斉王の弟の耳に入り、斉王劉襄が反乱を起こす。
    当時右丞相であった陳平と謀って呂氏一族を倒した(周勃は陳平が漢軍に投じた際、陳平を変節漢として批判していた)。
    呂氏誅滅直後に、この功績で、病気と称し官を辞した陳平の代わりに丞相となった。
    だが、陳平の才能の高さに自信を無くした周勃が陳平に丞相を任し辞任したことがあった。
    その後、陳平が没したために再び丞相となった。
    第5代目の文帝が周勃に臣下の礼を取るほど尊敬されていたが、文帝はそれを袁?に諫められた。
    周勃は地方へ赴任するが、処刑を恐れ使者が訪れる度に武装して迎えていた為に反乱の兆しがあると使者から伝えられ投獄された。
    その際に獄吏に賄賂を渡し、周勝之に無実だと書いた手紙を渡す。
    そして無実だということが袁?や文帝の母の薄太后に知ることとなり、文帝を諫め釈放する。
    その際に「かつては百万の軍勢を指揮したことがあったが、獄吏にこのような力があるとは知らなかった」と述べ、その後は領地で静かに暮らし晩年を送った。

    逆援助
    盧綰
    盧 綰(ろ わん、紀元前256年若しくは紀元前247年 - 紀元前194年)は、秦末から前漢初期にかけての武将。
    前漢初期の燕王。
    盧綰の父親と劉太公が親友付き合いをしており、また、盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、彼等の息子である二人も親友として育つ。
    劉邦が罪を犯して逃亡した際も、盧綰は劉邦と行動をともにしたという。
    二人の親友付き合いは、劉邦が皇帝になってからも続き、劉邦の臣下では唯一盧綰のみが、劉邦の寝室に自由に出入りすることが許されたという。
    劉邦が反秦の挙兵をした際も、盧綰はこれに従い、各地を転戦した。
    楚漢戦争の時には、劉賈(劉邦の従兄)とともに命を受けて、昌邑で彭越と合流し、楚軍の補給基地を襲撃し、これに成功している。
    このために項羽は食料難に陥り、最後まで悩むことになる。
    紀元前202年、劉邦が帝位について間もなく、燕王臧荼が反乱を起こして敗死すると、当時、太尉(軍事担当宰相)だった盧綰が後任の燕王に封建された。
    しかし、紀元前195年、英布討伐の際の負傷が原因で体調を崩している劉邦に盧綰が謀反を企てているとの告発が行われ、盧綰はこれまでの「皇帝陛下の第一の親友」から「謀反人」になってしまう。
    そのために劉邦は、これも盧綰の親友の一人であった樊?に燕討伐の大将に命じた。
    しかし、盧綰は、「陛下は、病気のせいで気が動転されているだけだ。
    陛下の病が本復されたら、わしはいの一番に詫びを入れるつもりだ。
    さすれば、陛下は直ちにわしをお赦しなされるだろう」と、劉邦のことをいつまでも信じていた。
    しかし、同年夏に劉邦が未央宮で没し、太子の劉盈(恵帝)が即位した。
    この報を聞いた盧綰は、今まで諸侯王廃絶政策に大きな役割を果たしてきた呂雉が皇太后として後見することを知ると、もはやこれまでと、匈奴の元へ亡命する。
    匈奴の冒頓単于は盧綰を歓迎し、「東胡の盧王」に封建するも、一年余で盧綰は病死した。
    やがて、呂雉の時代に盧綰の妻子は漢が恋しくなり、紀元前180年に秘かに匈奴から脱出した。
    その時の呂雉は重病だったが、亡夫の親友だった妻子を赦し、間もなく死去した。
    それを追うように盧綰の妻も病にかかり、亡くなった。
    紀元前144年、盧綰の孫である盧他之は匈奴の東胡王であったが漢に帰順した。
    景帝は盧他之を亜谷侯に封じた。

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