項羽3

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    項羽3

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    垓下の戦い
    垓下の戦い(がいかのたたかい)は、中国楚漢戦争期の紀元前202年に項羽の楚軍と劉邦の漢軍との間の垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)を中心に行われた戦い。
    この戦いで項羽が死んだことによって劉邦の勝利が完全に決定し、楚漢戦争が終結した。
     
    垓下の戦いまでの流れ
    紀元前203年、広武山で長く対峙していた楚漢両軍であったが、楚軍は食糧不足、漢軍は劉邦の負傷や劉邦の父・劉太公が楚軍に捕らわれていたことなどの理由があり、両軍とも戦いを止めることを願うようになった。
    漢軍から弁士・侯公が楚軍へ使者として送られ、天下を二分することで盟約が結ばれた。
    楚軍は本拠地の彭城(現徐州)への帰還を始めたが、劉邦は張良・陳平の「弱っている楚軍を滅ぼす好機」との進言を容れ、盟約を反故にして追撃を行った。
    漢軍は楚軍を追って固陵(現河南省淮陽県の西北)という所まで進み、同時に韓信と彭越にそれぞれの兵を率いて共に楚軍を討つように命じ、陽武(現河南省太康県)に兵を進めた。
    しかし両者は姿を見せず、一方で裏切りに気づいた項羽は漢軍へ反撃、大きな被害を受けた漢軍は城の中に入り、塹壕を深くして守りに徹した。
    張良は劉邦に対して韓信・彭越が来ないのは2人に恩賞の約束をしていないからだと言い、韓信には陳から東の海に至るまでの全ての土地を与え、彭越に対しては?陽より北・穀城に至るまでの土地を与え、梁王(魏王)とするようにと進言、劉邦もこれを容れ、韓信・彭越に使者を送った。
    その結果、2人は即座に軍勢を率いて劉邦に合流した。
    さらに劉賈の軍も彭越と合流、楚軍の周殷も寝返り、これらの軍勢は次々と垓下の劉邦の下に集結した。


    四面楚歌

    四面楚歌
    韓信は自ら30万の兵を率いて10万ほどの楚軍と戦う。
    初めの内は楚軍が優勢だったが、徐々に漢軍が盛り返し、最後には楚軍が敗れた。
    敗れた楚軍は防塁に篭り、漢軍はこれを幾重にも包囲した。
    夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いた。
    この故事から周囲を敵に囲まれることを「四面楚歌」と言うようになった。
    形勢利あらずと悟った項羽は、別れの宴席を設けた。
    項羽には虞美人という愛妾がおり、また騅という愛馬がいた。
    これらとの別れを惜しみ、項羽は自らの悲憤を詩に読んだ。
    力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
    時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)
    騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 如何すべき)
    虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を如何せん)
    虞美人もこれに唱和し、項羽は涙を流し、臣下の者たちも全て涙を流した。
    宴が終わると、項羽は夜を突いて残る八百余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。
    漢軍は夜明け頃にこれに気がつき、灌嬰が五千騎の兵を率いてこれを追った。
    八百の兵は次第に数を減らし、東城(現安徽省定遠県の東南)に辿りついたときには項羽に従う者わずか二十八騎になっていた。
    ここで数千の漢軍に追い付かれた項羽は、配下の者に「ここでわしが滅びるのは天がわしを滅ぼそうとするからで、わしが弱いからではない。これから漢軍の中に入ってこれを破り、それを諸君に知らしめよう。」と述べ、二十八騎を七騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んでいった。
    項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士八、九十人を殺した。
    配下が再び集結すると脱落したのはわずか二人だけであった。
    配下の者は項羽の言った通りだと深く感じ入った。
    項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場(現安徽省和県の烏江鎮)に至った。
    ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。
    烏江の亭長(宿場役人)は項羽に「江東は小さいですが、土地は方千里、人口も数十万おります。この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることは出来ません。」と告げた。
    しかし、項羽は笑ってこれを断り、「昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。江東の者たちが再びわしを王にすると言ってくれても何の面目があって彼らに会うことが出来るだろうか。」と答えて亭長に騅を与え、部下も全て下馬させて、漢軍の中へ突撃した。
    項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。
    項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢はわしの首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前に徳を施してやろう。」と言い、自ら首をはねて死んだ。
    項羽の死によって約5年続いた楚漢戦争は終結し、劉邦は天下を統一して前後約400年続く漢王朝の基を開くのである。


    虞美人
    虞美人
    虞美人(ぐびじん、? - 紀元前202年?)は、秦末から楚漢戦争期の女性。
     
    生涯
    項羽の愛人。
    正確な名前ははっきりしておらず、「虞」は姓である(『漢書』)とも名である(『史記』)ともいわれ、「美人」も後宮での役職名であるともその容姿を表現したものであるともいわれる。
    小説やテレビドラマでは項羽の妻として描かれ、虞を姓とし「虞姫」と紹介されているものが多い。
    項羽との馴れ初めについては『史記』にも『漢書』にも一切記載されておらず、垓下の戦いで初めて「劉邦率いる漢軍に敗れた傷心の項羽の傍にはいつも虞美人がおり、項羽は片時も彼女を放すことがなかった」と紹介されている。
    劉邦軍により垓下に追い詰められ、四面楚歌の状態になって自らの破滅を悟った(思い込んだ)項羽は彼女に、 「力は山を抜き、気は世を覆う。時利あらずして騅逝かず。騅逝かざるを如何せん。虞や虞や汝を如何せん。」(垓下の歌) と歌い、垓下から脱出する。
    『史記』および『漢書』ではその後の虞美人について一切記述されていないが、小説では項羽の足手まといにならぬために虞美人は自殺している。
    また、虞美人の自殺云々についても、女性の貞節が口うるさく言われるようになった北宋時代からそのような話が出てくるようになったといわれる。
    自殺した虞美人の伝説はヒナゲシに「虞美人草」という異名がつく由来となった。
       

    陳平
    陳平
    陳 平(ちん ぺい、- 紀元前178年)は、中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。
    当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。
    その後、劉邦の遺言により丞相となり、呂雉亡き後の呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守るという功績を立てた。
     
    生涯
    『史記』では世家、『漢書』では伝が立てられている。
    陳平は陽武戸版(現在の河南省原陽県)の人。
    生まれつき背が高く、実に見栄えがする容姿をしていた。
    若いときは兄で農家の陳伯の元で勉学に励んでいた。
    兄嫁は勉学ばかりに精を出し家業を手伝わない陳平に対して文句を言っていたが、伯はこの嫁を離縁してしまった。
    伯は陳平の才に感じ入り期待していたのである。
    ちなみに次のような逸話がある。
    地元の有力者で張氏という人物の孫娘がいたが、その孫娘と結婚した相手5人全員が事故や病気などで死亡してしまい、それ以降孫娘を恐れ誰も嫁にしたがらなかった。
    その話を聞いた陳平は葬儀屋の仕事を手伝い、その勤勉さが張氏の耳に触れることになる。
    陳平は次の手として、貴族が乗る馬車の車輪を自宅の玄関に置いた。
    葬儀の仕事が終わった後に家へ帰る陳平の後を付けていた張氏は、その車輪を見るや「陳平には高い志と天性がある」と思い、後日張氏の孫娘を陳平の嫁とした。
    陳平はその持参金により多大な財産を手に入れ、その財産を元手に交際を広め知人を増やしていった。
    陳勝・呉広の乱の乱が勃発すると、魏咎に仕えるようになるが、進言を聞いてもらえず、周りの讒言を恐れて逃亡する。
    次に項羽に仕えて、謀反を起こした殷王・司馬?を降伏させた功績で都尉となったが、司馬?があっさり東進してきた劉邦に降ったため、項羽の怒りを恐れて再び出奔した。
     
    劉邦の名参謀として
    陳平は出奔中に野盗などに襲われそうになったりするものの、先んじて自分の服や剣などを渡し命は守る。
    そして裸一貫で漢にいた旧知の魏無知を頼り、そのつてで劉邦に面会する。
    劉邦もその話し合いで陳平を気に入り、即日項羽時代と同じく都尉に任じた。
    劉邦に長く仕える周勃と灌嬰に「兄嫁と密通していた(とは周勃たちが言っているだけなので真実かどうかは不明)」、「賄賂を取って地位を上下させた」などの品行の無さを訴えられるが、その弁明「役目は授かったが必要な経費を頂いておらず、漢楚の状況から待ってはおれず金品を受け取りました」や、「今の漢には才が要であり、品は才の後」という進言もあり、それでもなお劉邦は重用し、更に位を亜将(将軍に次ぐ位)まで上げ、韓王信に所属させた。
    まもなく劉邦は項羽に追われ、?陽城に籠城することとなった。
    不利な状況の中陳平は、項羽が疑り深い性格であるため部下との離間が容易に出来ると劉邦に進言し、劉邦もその実行に四万金もの大金を与えた。
    そして范増・鍾離昧・竜且・周殷と言った項羽の重臣たちが項羽から自立しようとしているとの噂を項羽の耳に流し込んだ。
    項羽はそれを信じて疑うようになり、項羽軍に大きなほころびが生じることとなった。
    特に范増へは項羽配下随一の智謀の才であったためか念を入れ、項羽へ和平の申し入れを行い、使者を送らせ噂の真偽を確かめるよう仕向けた。
    そして使者を范増の使わした使者として、豪華な宴席に招き、范増と仲が良いかのように振舞った。
    しかし使者が項羽の使者であると聞くと、粗末な席に変えさせ、劉邦に「我が方は勝てるが、お情けで和平してもよい」と言わんばかりの横柄な態度で接させた。
    このため范増は項羽に亜父と称され厚く信頼されていたにも係わらず失脚し、故郷に帰る途中で憤死した。
    さらに韓信が斉王を名乗ろうと願い出た際には、憤る劉邦を張良とともに納得させた。
    また広武山で項羽と和議を結んだ際には、和議を破って疲弊した項羽軍に攻め込むべきであると張良とともに進言し、最終的な漢の勝利を得ることとなった。
    紀元前202年、劉邦が項羽に勝利して前漢が建てられると、陳平は故郷の戸版に封じられて戸版侯と成った。
    紀元前200年、劉邦は匈奴討伐に自ら出征するが、冒頓単于の作戦で平城(現在の山西省大同付近)の白登山で包囲されて食糧も尽きてしまった。
    ここで陳平の奇策で何とか和睦をして劉邦は帰る事ができた。
    この作戦の内容は分からないが、冒頓単于の閼氏(皇后)に中国の美女が単于の物になるかもしれないと吹き込んで、その嫉妬心につけこんだ物と伝わっている。
     
    呂氏との闘い
    紀元前195年、劉邦は燕王・盧綰(劉邦の親友であり、劉邦子飼いの唯一の王)討伐を樊?に命じる。
    劉邦は出征したものの討とうとしなかった樊?(劉邦、盧綰とも親友)にも謀反の疑いを持ち、樊?をも捕らえて殺すように陳平に命じる。
    しかし樊?は皇后呂雉の妹婿であり謀反の必然性は薄く、病床の劉邦の気の迷いと思われ、後難を恐れたこともあり、捕らえたものの処刑しようとはしなかった。
    まもなく劉邦の死去を聞くと、劉邦の棺の傍らにかけつけ、大いに泣き喚くことで呂氏一族の警戒を解こうとした。
    紀元前190年に曹参が死んだ後で左丞相(副首相格)に任じられて、その後の呂雉の専権時代には面従腹背の姿勢を保ち、呂雉と対立して失脚した王陵の後を受けて右丞相(正宰相格)となった。
    しかし呂氏が中央の兵権を完全に握っているなど右丞相には権力がなく、実質的に名のみの役職であった。
    陳平も酒と女に溺れ骨抜きになったふりをし、呂雉や夫(樊?)を捕らえられた恨みを持つ呂須から警戒心を持たれないようにして粛清の嵐を避け、反攻の機を伏して待った。
    紀元前180年に呂雉の死を機として、陸賈の助言により陳平は宴会に見せかけ、宮廷内で大尉・周勃を始めとする反呂氏勢力や信頼できる人物を集め、密かに人脈を築き、打ち合わせを重ねていった。
    監視を徹底していた呂氏も、酒好き女好きの右丞相が行う宴会なので、警戒をしなかった。
    そして斉王の蜂起と、その討伐に出した灌嬰の寝返りなどに動揺する宮中において策略を用い、周勃などとともに呂雉の甥である呂禄の不安を煽らせるため、?商を脅迫し?商の息子の?奇が呂禄の友人であり呂禄に対し領地へ帰国するよう進言、呂禄はそれに従い兵権を返上させた。
    そしてその兵で別の甥・呂産の帝位簒奪クーデターを鎮圧。
    これを口実として呂氏を皆殺しにする逆クーデターを実行し、劉邦の子である代王劉恒(文帝)を立てた。
    その後まもなく引退したが、周勃と文帝に乞われて再び右丞相となった。
    なおクーデター鎮圧の際に、兵権は握ったものの兵士が従うか不明だったため、「劉氏に加担するものは左袒(衣の左の肩を脱ぐ)、呂氏に加担するものは右袒(衣の右の肩を脱ぐ)するよう」との触れを出し、兵士は全て左の肩を脱いだことが、義により味方することを意味する「左袒する」の故事成語となった。
    紀元前179年、死去した。
    ちなみに陳平の爵位は陳平の曾孫の陳何まで受け継がれていたが、陳何が他人の妻を寝取ったとして処刑され、爵位を奪われた。
    また、同じく陳平の玄孫の陳掌は霍去病の母と密通をし、霍去病の義理の父となった。

    人妻
    項羽の評価
    項羽は劉邦と対照的な性格とされ、それを示す逸話として項羽と劉邦がそれぞれ始皇帝の行幸に会った時の発言が良く取り上げられる。
    項羽は始皇帝の行列を見て「あいつに取って代わってやる」(彼可取而代也.)と言ったが、劉邦は「ああ、立派な男とは此の様な者であるべきだ!」(嗟乎,大丈夫當如此也!)と言ったと伝えられる。
    このように項羽と劉邦は様々な点で対照的な面を見せたが、劉邦が項羽に対して対照的であろうとした節もある。
    項羽は自らも言うように戦場では連戦連勝で文句の付け所が無かったが、戦闘以外の場所では捕虜を虐殺したりするなどの悪行が目立った。
    有名な新安での秦兵20万の虐殺は項羽にとっては決して特別な行為ではなく、それ以外にも城を落とすたびに住民を坑した事が幾度もあった。
    項羽に対して秦は激しく抵抗し、その間、秦軍を降伏させて進軍を早めた劉邦が先に咸陽一番乗りを果たしている。
    また、こうした苛烈さは、秦滅亡後に起きた斉の離反を鎮圧できずに劉邦に東進を許してしまう原因にもなった。
    事跡から想像できる項羽の性格は、かなり子供っぽいものと言える。
    咸陽を落とした後、「関中は山河に四方を囲まれ、土地は肥沃、此処に都を構えて覇を唱えましょう」と進言されたが「せっかく出世したのに故郷へ凱旋しないのは、夜中に刺繍の入った着物を着て道行くのと同じことぞ。誰がそれを知ろうか」と答えたという逸話は、項羽の性格をよく表している。
    項羽は喜怒哀楽が激しく、部下に対して厚く慈しむ場合もあれば、激しく詰ることも多かった。
    特に部下と女子との扱いが極端に違っていたこともあり、韓信を雑兵のまま重用しなかったり、陳平の対応に怒り殺そうとしたため陳平が漢に降ることになったり、揚げ句の果てには亜父と慕っていた范増さえも疑って引退させるなど、その性格から数々の将軍・策士が項羽から離れる結果となった。
    また、ある時あまり敵兵が抵抗せずに城を落とせた為兵士が弱い(或いは敵兵が強く抵抗したことで自分を主と認めない)と怒って城兵を含む住民を皆殺しにしようとしたが、利発な子供に説得されて住民の皆殺しを取りやめたなどの逸話がある。
    韓信に評価された「匹夫の勇」(取るに足らない男の勇気)、「婦人の仁」(実態の伴わない女子供のやさしさ)という項羽の性格は、天下を治めるには不適格だった。
    そうした自分の欠点に最後まで気づかないまま自ら命を絶った項羽を、司馬遷は史記の中で「東城で死ぬときになっても、まだ自分の責任と自覚していない。
    あやまりだろう。
    そして「天が私を滅ぼす、用兵の罪ではない」という。
    どうして間違いではないと言えよう。
    」と強く批判している。
    しかし、項羽の短くも苛烈な生涯に多くの人々が魅了されてきたのも事実であり、京劇の「覇王別姫」は現在も人気の演目となっている。
    史記の中で、項羽は本紀(第7巻・項羽本紀)を立てられている。
    これは短い時間であったが天下の主であったという司馬遷の考えからだろう。
    なお、この項羽本紀は史記の中でも特に名文の誉れが高く、日本の『平家物語』に於ける木曽義仲の最期を描いた場面は、項羽本紀に於ける項羽の死の描写に影響を受けているといわれている。

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