項羽2

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    項羽2

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    西楚の覇王
    項羽は劉邦を許した後、劉邦に降伏していた秦の最後の王である子嬰一族を殺し、咸陽を焼き払って財宝を略奪した。
    その後、地の利の良い咸陽を都とするように進言されたが、故郷に錦を飾るために楚の彭城(現在の徐州)を都と定めた。
    楚へ帰ると自ら「西楚の覇王」と名乗り、諸侯を対象に大規模な封建を行うが、その基準となったのは功績ではなく、項羽との関係が良好か否かであった。
    故に、ろくに手柄を立てなかったものが優遇されたり、逆に、咸陽に一番乗りして秦を滅亡させた劉邦が冷遇されて漢中に左遷されるなど、不公平なものとなり、諸侯の多くに大きな不満を抱かせるものとなった。
    また、項梁が擁立していた楚の懐王を「義帝」と呼んで格上げしたが、遷都ということで遠隔地へ連行し、その途中で暗殺させてしまった。
    楚漢戦争
    紀元前206年、斉の王族・田栄が項羽に対して挙兵すると、これをきっかけに封建に不満を抱く諸侯が続々と反乱を起こした。
    義帝の殺害を知った「漢王」劉邦は大義名分を得て蜂起し、諸侯へ項羽への反乱を呼びかける。
    これ以降の楚と漢の戦争を「楚漢戦争」と呼ぶ。
    このときの諸侯に向けた檄文は以下のものである。
    「天下共立義帝,北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道.寡人親為發喪,諸侯皆縞素.悉發關内兵,收三河士,南浮江漢以下,願從諸侯王?楚之殺義帝者.」
    項羽は討伐軍を率いて各地に転戦する。
    項羽は戦闘には圧倒的に強く、項羽が行けばすぐに反乱は収まるものの、間を置かず別の地域で反乱が置き、項羽がその鎮圧に行けばすぐにまた別の地域で反乱が再発するといういたちごっこを繰り返した。
    また項羽が降伏を許さず、反乱を起こした国の兵士は全員生き埋めにして殺し、住民も情け容赦なく殺すため、反乱軍は兵民一丸となって必死に抵抗し、戦闘は泥沼化していった。
    特に斉は70余りの城があり、項羽は長らく手を煩わされることになる。
    さらに、九江王に封じた英布に幾度も救援要請を行ったが、病と称して拒否されるなど、味方と考えていた者にも裏切られている。
    項羽は戦術には非常に優れていたが、戦略・政略・人望などに乏しく、直情径行型であったため人の恨みを買いやすかったといわれる。
    三秦(関中)を平定した劉邦は魏・趙などと連合して50万を超える大軍を率いて楚の彭城を占領するが、これは寄せ集めの集団であり、3万の精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍を一蹴する(彭城の戦い)。
    劉邦は敗走し、父や妻の呂雉は項羽の捕虜となった。
    その後、項羽は?陽(けいよう、河南省?陽市)一帯に劉邦を追い込んだが(?陽の戦い)、劉邦配下の韓信による魏・趙・燕・斉諸国遠征や、項羽に反感を抱く彭越、離反した英布などの、諸侯による後方撹乱行動に悩まされる。
    このため劉邦をしばしば破り何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなって追及の手を緩めると、今度は関中の蕭何の補給で盛り返した劉邦が再度項羽と対峙する、という繰り返しとなった。
    その間隙を狙って行われた陳平による内部分裂工作により、知恵袋であり亜父(父に亜ぐ)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離昧・龍且等の将軍を疑うようになる。
    その後、范増は病死し、韓信に攻められていた斉の救援に龍且率いる20万の軍勢を差し向けるものの、これは韓信の水計により壊滅し、大打撃を受ける。
    更に漢から斉に至る楚包囲網が完成し、ここにきて劉邦・韓信の力が楚を上回るようになっていった


    章邯

    章邯
    章邯(しょうかん、ピン音 ; Zhang Han、- 紀元前205年)は秦の将軍。
    弟に章平。
     
    生涯
    九卿の末席である少府を務めていたが、紀元前209年冬に陳勝・呉広の乱でかつて楚に仕えていた周章(周文)率いる反乱軍が都の咸陽付近まで迫って来た時に、反乱軍の勢いと秦軍の少なさから始皇帝の陵墓で働いていた囚人20万人を赦してこれを反乱軍に当てるという策を献じ、自らその軍を率いた。
    戦功を挙げれば罪が許される囚人達は決死の兵となり、周章の軍を打ち破り、周章を?地(べんち)で自決に追い込んだ。
    さらに内訌で呉広を殺害した田臧、李帰らを討ち取り、ケ説を破り、魏王の魏咎と斉王の田?を自害させ、許にいた伍徐も撃破した。
    さらに二世皇帝から援軍として送られた司馬欣・董翳と合わせて陳勝の本拠地である陳を攻撃し、紀元前208年には陳の西方で張賀の軍を破り、陳勝を敗走せしめた。
    その後、反乱軍を率いた項梁に対して章邯はわざと敗走を続けて侮らせ、項梁を死地に誘い込み、夜襲をかけて項梁を殺した。
    その後、趙の反乱軍を攻略する際、まず最初に邯鄲の都を破壊した。
    ここに籠られたら攻略に数年を要するからであり、この報を聞いた張耳と陳余は青くなったという。
    次いで王離・蘇角・渉間に趙王と張耳の籠る鉅鹿を包囲させた。
    だが紀元前207年、援軍にやって来た項羽の前に蘇角が戦死し、渉間が自決を遂げ、王離が捕虜となり反乱軍は勢いづき、さらに項羽は章邯軍の前まで一気に進軍し、秦軍は連敗を重ねた。
    章邯は司馬欣を都に送り皇帝に指示を請うが、逆に宮中の腐敗や趙高によってあらぬ罪を着せられ家族が処刑されたことを知った司馬欣に「功を立てても誅殺され、功を立てなくても誅殺される」と言われ、殷墟で将兵と共に項羽に降伏した。
    この際章邯・司馬欣・董翳の3名を、項羽は鷹揚に助命したものの、3名に従った20万の秦兵は数で楚兵を圧倒しており、蜂起による楚軍の被害を憂慮した項羽の指示で、偽りの夜襲を受け混乱の果てに断崖に誘導され、そこから転落死させられた。
    3名は、後にこのことを知った秦の民から深く恨まれることになった。
    楚軍に参加した章邯は秦が滅びると、「秦人の統治は秦人に任せるべき」との助言を范増から受けた項羽により、秦を3つに分割した内の一つ、雍王に封じられた(残る2つの王は司馬欣・董翳、彼らは三秦と呼ばれた)。
    これは漢中の劉邦を監視し、巴蜀の辺境に死ぬまで封じ込める目的であったが、この人事は、万単位の同胞を殺戮されながら、三秦はその張本人である楚の名代として舞い戻ってきたとして、秦人の憎悪をかき立てた。
    その結果、紀元前206年に劉邦配下の韓信の部隊が関中に侵入した際にも、蜀の桟道を復興すると見せかけて陳倉を暗に渡り(暗渡陳倉)、さらに秦人や、事前韓信が手配した漢の忍びがこれを内密に手引きし、全く予期せぬ奇襲攻撃を受ける形になった。
    章邯は陳倉で迎撃するも敗北、好畤でも敗れ、廃丘に籠って抵抗するが、翌紀元前205年になると弟の章平が捕らえられ、廃丘も水攻めに遭い、自殺した。


    彭城の戦い
    彭城の戦い
    彭城の戦い(ぼうじょうのたたかい)は、中国楚漢戦争期の紀元前205年に項羽の楚軍と劉邦の漢連合軍との間の彭城(現在の江蘇省徐州市)で行われた戦い。
    この戦いで56万の軍勢を項羽が3万の軍勢で勝利し、漢連合軍が大敗、解散へと追い込まれた。
     
    彭城の戦いまでの流れ
    紀元前207年、秦を制圧した項羽が覇王を名乗り諸将に対し封建を行った。
    ただし、この封建は項羽との関係の善し悪しで決められたために不満が多い上、項羽の主君である義帝を辺境の地へ追いやった上に殺害するというものでもあった。
    封建後、項羽に不満を持つ諸将が反乱を起こし、項羽が制圧しに向かう。
    秦をいち早く制圧したものの、辺境の地であった漢中に押し込められた劉邦はそこで韓信を得て、項羽が斉の反乱制圧に向かっている隙を見て、関中にいる劉邦の監視役である旧秦の三人の将軍(章邯・司馬欣・董翳)を破り、司馬欣・董翳を服従させた。
    項羽が斉の反乱制圧に手間取っている間、韓・魏・燕・趙と同盟を交わした。
    なお、趙と同盟するに当たり趙を牛耳っていた陳余が恨みがある劉邦部下の張耳の首を要求してきたので、張耳によく似た罪人の首を届け、同盟を結んだ。
     
    彭城制圧
    劉邦は義帝殺害など大義名分を掲げ漢・韓・魏・燕・趙の軍勢56万を引き連れ、項羽の都である彭城に迫った。
    彭城の危機を知った項羽は九江王英布に彭城を守備するよう命じる。
    だが、英布は病と称して項羽の要請を断る。
    わずかな守備兵だけを残していた上に英布の援軍も無く56万の軍勢相手に太刀打ち出来ず、彭城はすぐに落城した。
    劉邦は連合軍に対して全軍の指揮を執らず、各国の軍に指揮を任せていた。
    また彭城制圧後、かつて秦の咸陽を制圧した時のように劉邦を諫める者もいなかったために、城内の財宝を荒らした上に城内の女性を犯し、毎日酒宴を開く有様であった。
       

    項羽の急襲
    項羽の急襲
    英布の援軍も無く彭城が制圧されたことを聞いた項羽は怒り、すぐさま斉と停戦協定を結び、3万の先鋭部隊を編成。
    彭城へと戻った。
    連合軍に士気が無い上に酒に酔っていることを知ると、項羽は夜明けと共に城の西側から攻め、城内の連合軍を打ち破った。
    連合軍が城外に出ると項羽は追撃し、漢軍10万人余りが?水に追い詰められて殺され、川の水がせき止められるほどであったという。
    そのため、連合軍は散り散りになって逃走し、劉邦は途中に家族が住む沛に立ち寄るものの既に劉太公や呂雉ら家族が捕らえられ、劉盈とその姉を見つけたので馬車に乗らせて逃亡した。
    途中、劉邦は恐怖に駆られて馬車から子供たちを突き落として逃げようとしたものの御者の夏侯嬰に諭されて子供らと共に逃亡した。
     
    戦後
    わずか3万の軍勢に大敗した、見るも無惨な戦いを見た各国は漢を見切る結果となった。
    また、陳余は逃亡時に張耳を見たという兵からの報告に怒り漢と敵対することとなった。
    また、司馬欣・董翳も項羽に下った。
    そのため、劉邦は韓信に各国を制圧するよう命じ、陳平が項羽に対して離間の計を進言、実行させ内部崩壊を計り、その後劉邦が勢力を拡大させた。

    熟女
    四面楚歌
    紀元前203年、項羽は劉太公を返還することで劉邦と一旦和睦し故郷へ帰ろうとしていた。
    しかしこの時漢軍が和平の約束を破り項羽の後背を襲った。
    長い戦闘で疲弊の極みにあった楚軍は敗走し、韓信の兵力30万を始めとする諸侯連合軍に項羽軍10万は垓下に追い詰められた(垓下の戦い)。
    この時に城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきた。
    これを聞いた項羽は「漢は皆已に楚を得たるか?是れ何ぞ楚人の多きや」と嘆いた。
    ここから四面楚歌の言葉が生まれた。
    その夜、項羽が愛人虞美人に送った詩が垓下の歌である。
    「力は山を抜き,気は世を蓋う。
    時、利あらず,騅、逝かず。
    騅の逝かざるを奈何にす可き。
    虞や、虞や,若を奈何んせん!」 項羽は手勢八百騎を率いて鬼神の如き強さを示し、漢軍の包囲網を突破して烏江(うこう、今日の安徽省巣湖市和県の烏江鎮)と言うところまでやってきた。
    ここの渡し守に、 「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。
    願わくは大王、早く渡ってください。
    今は私一人が船を出し、漢の軍は至っても渡ることは出来ないでしょう」 と言われたが、項羽は 「天が我を滅ぼすのに何故渡ろうか?私が江東の子弟八千人を率いてここから西へ出発し、今一人として帰る者が居ない、たとえ江東の父兄が哀れんで私を王にしようとも、私に何の面目があろう?たとえ彼らがそれを言わなくとも、どうして私一人が心に恥を感じずにいられようか」 と断った。
    項羽は、追っ手の中に旧知の呂馬童がいるのを見つけると、 「漢は私の頭に金を千と邑を万を懸けていると聞く、おまえにその恩賞をやろう」 と、言って自らの首を刎ねて死んだ。
    劉邦は項羽を殺した者に対して領土をかけていたので、項羽が死んだ時、王翳が頭をとり、その他の部分の死体に向かって兵士が群がり、死体を取り合い、殺し合う者が数十人にもなった。
    故に死体は五つに分かれた。
    劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して渡した。
    また劉邦は無惨な死体となった項羽を哀れみ、魯公の礼を以て穀城に葬った。
    なお、項羽の死後、項伯(射陽侯)をはじめとして項一族はいずれも劉邦によって列侯に封じられ、劉姓を賜っている。

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