劉邦

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    劉邦

    劉邦
    劉邦(りゅうほう)は前漢の初代皇帝。
    沛県の亭長[1]であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ一時は関中を支配下に入れた。
    その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となる。
    その後に東進して垓下に項羽を討ち、中国全土を統一、前漢を興した。
    正確な廟号・諡号は「太祖高皇帝」だが、通常は高祖と呼ばれることが多い。
     
    生涯
    出生
    沛県郡豊県中陽里(現在の江蘇省徐州市沛県)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した。
    長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。
    生年については二説ある。
    劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。
    その夢の後に劉邦が生まれたという。
    また、諱の「邦」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢の荀悦『漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している[2]。
    出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。
    また、字の「季」は「末っ子」のことである[3]。
    劉邦の容姿は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。
    また太股に72の黒子[4]があった。
     
    任侠生活
    反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活していた。
    縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就任したが、任務に忠実な官人ではなかった。
    沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何と曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。
    しかし何故か人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり店が満席になったと伝えられる。
    またこの任侠時代に張耳の食客になっていたともいう。
    ある時に劉邦は夫役で咸陽に行った事があったが、そこで始皇帝の行列を見て、「ああ、男たる者はああ成らなくてはいかんな」と言った。
    この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに言った「あいつに取って代わってやる」という言葉とよく対比され、劉邦と項羽の性格の違いを表すものとして使われる。
    あるとき、単父(山東省)の人・呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た。
    名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。
    沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと提案した。
    そこへ劉邦がやってきて進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた。
    あまりの金額に驚いた呂公は慌てて門まで劉邦を迎えて、上席に着かせた。
    蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知っていたので、「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げた事は少ない(だからこのことも本気にしないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘を娶わせた。
    これが呂雉である。
    妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら生活していた。
    ある時、呂雉が田の草取りをしていた所、通りかかった老人が呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝と魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。あなたの貴さは言葉にすることが出来ない」と言い、劉邦は大いに喜んだという。
    『史記』には他にもいくつかの劉邦が天下を取る事が約束されていた との話を載せている。
    ただ、それらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は漢が火徳の帝朝と称することに繋がっている。


    反秦連合へ

    反秦連合へ
    陳勝・呉広の乱と挙兵
    ある時、劉邦は亭長の役目を授かり、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡し、やけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がし、自らも一緒に行くあてのない人夫らと共に沼沢へ隠れた。
    紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生し反乱軍の勢力が強大になるとと、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何と曹参が「県令では誰も従わない、人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。
    一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦に使者が行った後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした。
    劉邦は一計を案じて絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(中国の都市は基本的に城塞都市である)。
    その手紙には「今、この城を必死に守った所で、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令を殺して頼りになる人物(劉邦自身のこと)を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに答えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れた。
    しかし、劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退した。
    しかし、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった。
    以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。
    この時劉邦が集めた兵力は2、3千という所で、配下には蕭何・曹参の他に犬肉業者をやっていた義弟の樊?、劉邦の幼馴染で同日に生まれた盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた。
    この軍団で周辺の県を攻めに行き、豊の留守を雍歯という者に任せたが、雍歯は旧魏の地に割拠していた魏咎に誘いをかけられて寝返ってしまった。
    怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。
    当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れた所を殺されており、部下の景駒がィ君と秦嘉というものに代わりの王に擁立されていた。
    劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行く。
    紀元前208年、劉邦はィ君と共に秦軍と戦うが敗れて引き上げ、新たに?(トウ、現在の安徽省?山。?は石偏に昜)を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、更に下邑(河南省鹿邑)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めてやっと落とした。
    豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。
    張良である。
    張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧韓の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた。
    張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。
    ところが劉邦は出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦の事を褒め称えた。
    これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。
    劉邦と張良の関係は君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。
    その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁が新たな反秦軍の頭領となって、旧楚の懐王の孫を連れてきて楚王の地位につけ、祖父と同じく懐王と呼ばせた(後に項羽より義帝の称号を送られる)。
    劉邦は項梁の勢力下に入り、項梁の甥である項羽と共に秦軍と戦う。
    項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、章邯軍の前に戦死した。
    劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した。
    項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて趙を攻め、趙王の居城鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。
    そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。
    そして懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とするだろう」と約束した。
    趙へ向かった項羽は、途中で行軍を意図的に遅らせていた宋義を殺して自ら総指揮官となり、渡河した後に船を全て沈めて三日分の兵糧を配ると残りの物資を破棄し、退路を断って兵士たちを死に物狂いで戦わせるという凄まじい戦術で秦軍を撃破、一気にその勇名を高めた。
    しかしその後、咸陽へ進軍する途中で秦の捕虜20万を生き埋めにするという、これも凄まじい虐殺を行う。
    このことは後の楚漢戦争でも項羽の悪評として人々の心に残り、多大な影響をもたらす事になる。
      

    関中入り
    関中入り
    劉邦は西に別働隊を率いて行ったが、その軍勢は項羽軍に比べて質・量ともに劣っており、道々苦戦しながら高陽(河南省杞県)という所まで来た。
    ここで劉邦は儒者?食其の訪問を受ける。
    劉邦は大の儒者嫌いで、?食其に対しても、足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら面会するという態度であった。
    しかしこれを?食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて?食其の進言を聞いた。
    ?食其は「近くの陳留は交通の要所で食料が蓄えられているのでこれを得るべきである。城主は反秦軍を脅威に思っているので、降っても身分を保証すると約束して頂ければ、帰順させるよう説得する」と言った。
    劉邦はこれを採用し、陳留の城主は説得に応じて降り、交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。
    さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、開封を攻め落とした。
    次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた韓王成と張良を救援して秦軍を駆逐し、韓を再建。
    そしてその恩義を以って張良を客将として借り受ける。
    更に南陽を攻略し、この城主が逃げ込んだ宛(河南省南陽)を包囲、降伏させると、秦の領域へ近づいていった。
    この侵攻の際、劉邦は陳留のように降伏を認め、降伏した場合は城主をそのままの地位に任命したため無駄な戦闘はしておらず、その進軍は項羽よりも早かった。
    そしていよいよ関中の南の関門である武関に迫った。
    この頃、趙で項羽が秦軍の主力を撃破し、秦の内部では動揺が走った。
    始皇帝の死後、二世皇帝を傀儡として宦官趙高が専権を奮っていたが、この敗戦がばれれば自分が責任を取らされると考え、二世皇帝を殺し、紀元前207年になってから劉邦に対して関中を二分して王になろうという密書を送ってきた。
    劉邦はこれを偽者だと思って、自らの軍を持って武関の守将を張良の策によってだまし討ちにし、これを突破した。
    この後、趙高は王に建てようとしていた子嬰におびき出されて逆に殺されている。
    続く嶢関は秦最後の砦のため決死の兵が守っていたが、守将が商人出身であり、計算高いことを利用した張良の策により、大量の旗を重ねて大軍のように見せかけておいて、降るように誘った。
    この策は成功し、守将は降ることを約束したが、張良は兵達は決死なので降ることはないと察しており、あくまで油断させるためのものだった。
    劉邦の軍は砦に入るや否や守備隊の不意をついて攻めかかって制圧し、嶢関を突破した。
    こうして劉邦軍は関中に入る。
    最早阻むものはなく、秦都・咸陽は目前となった。
    秦王子嬰は覇上にまで迫っていた劉邦の所へ白装束に首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏した。
    部下の間には子嬰を殺してしまうべきだという声が高かったが、劉邦はこれを許した。
    咸陽に入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、樊?と張良に諫められ、覇上へ引き上げた。
    田舎の遊び人だった劉邦にとって、咸陽の財宝と後宮の女達は極楽にさえ思われただろうが、部下に諌められると一切手を出さなかった。
    こうした諌言を聞き入れる劉邦の度量と配下への信頼は、項羽と対照的であり、その後の天下統一にも非常に大きな作用をもたらすことになる。
    ちなみにこの時、蕭何は秦の文書殿に入って法令などの書物を全て持ち帰っている。
    これがその後の漢王朝の法の制定などに役立ったと言われている。
       

    漢王劉邦
    漢王劉邦
    覇上に引き上げた劉邦はこの地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて“法三章”を宣言する。
    これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりも出来、特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された)を「人を殺せば死刑。人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」とだけに改めたものである。
    この施策によって関中に於ける劉邦の人気は一気に高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。
    後世、「法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。
    その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。
    劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにも係わらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷関に兵士を派遣して守らせていた。
    劉邦が関中入りできた最大の要因は秦の主力軍を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、英布に命じてこれを破らせた。
    項羽は関中に入り、先の激怒と軍師范増の進言もあって、40万の軍で攻めて劉邦を滅ぼしてしまおうとした。
    劉邦の部下である曹無傷は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしておりまする」と讒言したので、項羽はますます激怒した。
    劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。
    項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。
    しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びる事を断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。
    項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。
    この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊?の働きにより虎口を脱した。
    項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。
    これが鴻門の会である。
    陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。
    その後、項羽は彭城に戻って“西楚の覇王”を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と祭り上げて辺境に流し、これを殺してしまった。
    紀元前206年、項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。
    しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っていたため多くの不満を買い、すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。
    劉邦にも約束の関中の地ではなく、その西側の一地方であり奥地・辺境である漢中及び巴蜀が与えられた。
    劉邦を「左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になったと言われている(もっとも当時において、「関中」には単に関中盆地のみを指す場合と統一以前の秦の領土全域を指す用法があって、両方の用法が併用されていた。
    つまり後者の用法に従えば、関中を与えるという約束が果たされたと言えなくもない)。
    さらに劉邦の東進を阻止するために、関中は章邯ら旧秦軍の将軍3人に分割して与えられた。
    当時の漢中は、流刑地とされる程の非常な辺境であった。
    そこへ行くには蜀の桟道と呼ばれる人一人がやっと通れるような道があるだけで、劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。
    ちなみに、関中入りしても秦王の命を奪わず宝物もそのままにした劉邦に対し、項羽は降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、華麗な宮殿を焼き払い、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。
    このことが、人心が項羽から離れて劉邦に集まる一因となっている。

    セフレ
    鴻門の会
    鴻門の会(こうもん-かい)は、紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外で会見した故事。
    楚漢の攻防の端緒となった。
     
    鴻門の会以前
    紀元前207年、楚の懐王は、関中をはじめに平定したものを関中の王とすると諸将に約束した。
    懐王は、項羽らを趙の救援のために北上させたが、劉邦(当時は沛公)には、函谷関より関中へ進軍するよう命じた。
    命を受けた劉邦は軍を進め、秦軍と戦った。
    一方、秦の宰相である趙高は、二世皇帝を殺害し、関中を二分しようと提案してきた。
    劉邦はこれを謀略と断じ、張良の建策に従って秦の将軍を買収し、武関を攻略。
    関中に侵入し、秦軍を撃破した。
    その際、秦王の子嬰が降伏し、劉邦は遂に軍を率いて秦都咸陽へ入る。
    この時、項羽はまだ関中に至っていなかった。
    劉邦に後れて函谷関に至った項羽は、関を守る劉邦軍の兵を見る。
    更に、劉邦がすでに秦都咸陽を陥落させたと聞いて大いに怒り、当陽君らを派遣して函谷関を攻撃し、関中へ入って戯西に軍を進めた。
    劉邦に謀反の罪を問い、撃滅してしまおうとしたのである。
    項羽軍は劉邦軍に比べて兵力のみならず勇猛さでも圧倒的に上であり、劉邦の命運は風前の灯となった。
    項羽の叔父の項伯は夜密かに馬を走らせ、劉邦に客将として従っていた張良に会った。
    項伯は張良とかねてより親しく、また仇持ちとなった際に匿ってもらった恩義があった。
    事の顛末を話し、君だけは助けたいと共に脱出するよう誘うが、張良はそれを拒否し、一部始終を劉邦に伝えた。
    劉邦は驚き、項伯と会って姻戚関係を結ぶことを約束し「咸陽に入って以来、宝物などを奪う事もせず、項羽将軍を待っていました。
    関に兵を置いたのは、盗賊と非常時に備えたものです。
    これを項羽将軍に伝えてください」と言った。
    項伯は納得するがそれを項羽へ伝える条件として、劉邦が明朝、項羽の陣営へ直接来て謝罪する必要があると言い、これを劉邦は受け入れた。
    一方の項羽も項伯のとりなしにより怒りが和らぎ、弁明を聞くことにした。
    そしてその翌日、後にいう「鴻門の会」が行われることとなった。
     
    鴻門の会
    明朝、劉邦は鴻門に項羽を訪ねた。
    しかし護衛の兵は陣外に留め置かれ、本営には劉邦と張良だけが通された。
    劉邦はまず項羽にへりくだって謝罪し、「私達は秦を討つために協力し、項羽将軍は河北に、私は河南に戦いました。
    思いもよらず私が先に関中に入りましたが、小人の言うところがあって、互いの関係にヒビが入っているのは残念でなりません」と弁明した。
    それに対して項羽は、「それは曹無傷が言った事だ」と返した。
    項羽は宴会を始め、項羽・項伯は東に向いて上座に座った。
    范増は南向き、劉邦は北向き、張良は西向きにそれぞれ座った。
    宴会中、范増は項羽に目配せして、劉邦を斬るよう合図を送った。
    そもそも劉邦を陣中に入れたこと自体が謀反を大義名分として斬ることを目的としたもので、彼を項羽のライバルとして警戒する范増が強く進言したものだった。
    しかし、劉邦が卑屈な態度を示して項羽を煽て続けていたので、項羽は討つ気が失せ、一向に動かなかった。
    三度合図を送っても全く動かなかったので、范増は一旦中座して項荘を呼び、祝いの剣舞と称して劉邦に近づき、斬るよう命じた。
    これを受けて項荘は剣舞を始めたが、企みに勘づいた項伯も相方として剣舞を始め、項荘を遮り続けた。
    この時、張良も中座し、陣外に待機していた樊?に事態の深刻さを伝えた。
    樊?は髪を逆立てて宴席に突入し、「戦勝の振る舞いがない!お流れを頂戴致したく願います!」と項羽をにらみつけ、その凄まじい剣幕に剣舞が中止となる。
    項羽はその豪傑ぶりに感心し、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊?はそれを一気に飲み干した。
    更に、豚の生肩肉を丸々一塊出すと、樊?は盾をまな板にして帯びていた剣でその肉を切り刻み、平らげた。
    ここで項羽がもう一杯と酒を勧めると、樊?は「私は死すら恐れませんのに、どうして酒を断る理由がありましょうか。
    秦王は暴虐で、人々は背きました。
    懐王は諸将に、先に咸陽に入ったものを王にすると約束しました。
    沛公は先に咸陽に入りましたが、宝物の略奪もせず、覇上に軍をとどめ、将軍(項羽のこと)の到着を待っていました。
    関に兵を派遣したのも、盗賊と非常時に備えるためです。
    未だに恩賞もないのに、讒言を聞き入れて功ある人を殺すというのは、秦の二の舞ではありませんか」と述べた。
    これに対して項羽は返す言葉がなく、「それほど心配なら、ここに座っても良いぞ」と言うのみだった。
    その後、劉邦が席を立ったまま戻ってこないので、項羽は陳平に命じて劉邦を呼びに行かせたが、劉邦は樊?と共に鴻門をすでに去り、自陣に到着していた。
    この際張良は、劉邦が酒に酔いすぎて失礼をしてしまいそうなので中座したと項羽に謝罪し、贈り物を渡すと自らも辞去した。
    贈り物を前にした項羽はご機嫌だったが、范増は「こんな小僧とは謀略など出来ない!」と激怒し、贈り物の玉斗を剣で砕いてしまう。
    さらに深い嘆息をもらして、劉邦を討ち取る事ができなかったので、そのうち天下は必ず劉邦に奪われ、我らは捕虜となってしまうだろう、と言った。
    劉邦は自軍に戻ると、項羽に讒言をした曹無傷を直ちに殺した。
     
    鴻門の会以後
    鴻門の会において劉邦の釈明を受け入れた格好になった項羽は、劉邦を討つ大義名分を失う。
    天下を平らげ劉邦を蜀巴の地へ左遷はしたものの、ここで劉邦を討てなかったことが後の敗北につながった。
    また范増も項羽が劉邦を討たなかったことに憤慨し、後々の離間の遠因となる。
    范増を失った楚軍は張良・陳平の策謀に対抗する力も失った。
    この鴻門の会は劉邦最大の危機であったが、劉邦は臣下の進言を受け入れてその通りに行動し、また臣下も身命を賭して主君の危機を救った。
    これと対照的に、自らに実力があり自信もあったが故に臣下の進言を聞かなかった項羽は、その後悲劇的な運命をたどる。

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