劉邦2

劉邦2
項羽
  • 項羽2
  • 項羽3
  • 劉邦
  • 劉邦2
  • 劉邦3
  • ホーム >> 劉邦2


    劉邦2

    劉邦2
    漢楚戦争
    項羽との対決
    この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが韓信である。
    韓信は元は項羽軍にいたがその才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。
    最初は単なる兵卒や下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により、大将軍となった。
    その際に韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。
    また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。
    劉邦はこの進言を全面的に用いた。
    そして韓信の予言通り、項羽に対する反乱が続発し、項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走せざるを得なくなる。
    項羽は劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦は張良の策によって桟道を焼き払って漢中を出る意志がないと示し、更に項羽に対して従順な文面の手紙を出して反抗する気がないように見せかけていた。
    これで項羽は安心し、反乱を起こしていた斉の田栄を討伐に向かった。
    それを見た劉邦は、桟道以前に使われていた旧道を通って関中に出撃し、一気に章邯らを破って関中を手に入れ、ここに社稷を建てた。
    一方、遠征先の斉でも、項羽は相変わらず城を落とすたびにその住民を皆殺しにする蛮行を繰り返したため、斉の人々は頑強に抵抗した。
    このため項羽は斉攻略にかかり切りになり、その隙に乗じた劉邦はさらに東へと軍を進め、途中の王たちを恭順・征服しながら項羽の本拠地・彭城を目指した。


    大敗

    大敗
    紀元前205年、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。
    入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追い掛け回すという有様となった。
    一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断し切っていた漢軍を散々に打ち破った。
    この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという。
    劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。
    この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。
    劉邦は夏侯嬰と劉盈(恵帝)と魯元公主と一緒に馬車に乗り、夏侯嬰が御者となって楚軍から必死に逃げていた。
    途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために二人の子供を突き落とした。
    あわてて夏侯嬰が二人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、その度に夏侯嬰が拾ってきた(「親から子は生まれるが、子から親は生まれない」という事で、親である劉邦を保全するために子を犠牲にするというのは、儒教的倫理からすればそれほど非難されるものではない)。
    劉邦は?で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎ切れないことは明らかだったので、随何に命じて英布を味方に引き込もうと画策し、これに成功した。
    しかし英布は楚の武将・龍且と戦って破れ、劉邦の元へと落ち延びてきた。
    劉邦は道々兵を集めながら軍を?陽(河南省?陽)に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。
    この時期、劉邦の幕僚に謀略家・陳平が加わっている。
    その一方、別働隊に韓信を派遣し、魏・趙を攻めさせて項羽を背後から牽制しようとした。
    また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。
    紀元前204年、楚軍の攻撃は激しく、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。
    ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離昧との間を裂く事に成功する。
    范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。
    離間の計は成功したものの漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を偽の劉邦に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。
    その後、?陽は御史大夫の周苛が守り、しばらく持ちこたえたものの項羽によって落とされた。
    西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて?陽を救援しようとした。
    しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言。
    劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。
    そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(河南省氾水)へと入った。
    項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。
    夏侯嬰のみを供として敗走していた劉邦は、韓信軍が駐屯していた修武(河南省獲嘉)へ行って、韓信が陣中で寝ているところに入り込み、韓信の軍隊を取り上げた。
    更に劉邦は韓信に対して斉を攻めることを命じ、曹参と灌嬰を韓信の指揮下とした。
    また盧綰と従兄弟の劉賈には項羽の本拠地である楚へ派遣し後方撹乱を行わせた。
    韓信はその軍事的才能を遺憾なく発揮し、斉をあっさりと下し、楚から来た20万の軍勢と龍且をも打ち破った。
    ただ斉を攻める際に手違いがあり、斉に漢との同盟を説きに行った?食其が殺されるという事が起きている。


    再び敗れる
    再び敗れる
    紀元前203年、劉邦は項羽と対陣して堅く守る作戦をとっていたが、一方で項羽の後ろで彭越を活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。
    項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで守れ」と言い残して出陣し、彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、大敗していた。
    漢軍は項羽が帰ってくると再び防御に徹し、項羽が戦おうと挑んでもこれに応じなかった。
    その頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して鎮撫のため仮の斉王になりたいとの使者を送ってきた。
    これを聞いた劉邦は怒って声を荒げそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏んで諫められ、もし韓信が離反してしまえば取り返しがつかないことを悟り、韓信を正式な斉王に任命した。
    漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいた事を持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。
    次に項羽は「二人で一騎打ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。
    そこで項羽は弩の上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、矢の一本が胸に命中した劉邦は大怪我をした。
    これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、劉邦はとっさに足をさすり、「奴め俺の指に当ておった」と言った。
    その後劉邦は重傷のため病床に伏せたが、張良は劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。
    一方、彭越の後方攪乱によって楚軍の食料は少なくなっていた。
    もはや漢も楚も疲れ果て、天下を半分に分ける事を決めて講和した。
    この時、劉太公と呂雉は劉邦の下に戻ってきている。
       

    天下統一
    天下統一
    項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良と陳平は退却する項羽の軍を攻めろと進言した。
    もしここで両軍が引き上げれば楚軍は再び勢いを取り戻し、漢軍はもはやこれに対抗できないだろうというのである。
    劉邦はこれを容れて、項羽軍の後方を襲った。
    劉邦は同時に韓信と彭越に対しても兵士を連れて項羽攻撃に参加するように要請したが、どちらも来なかった。
    劉邦が恩賞の約束をしなかったからである。
    張良にそれを指摘された劉邦は思い切って韓信と彭越に大きな領地の約束をし、韓信軍と彭越軍を加えた劉邦軍は一気に膨張した。
    項羽に対して有利な立場に立ったことで、その他の諸侯の軍も雪崩をうって劉邦に味方し、ついに項羽を垓下に追い詰めた。
    追い詰めはしたものの、やはり項羽と楚兵は勇猛であり、漢軍は連日大きな犠牲を出した。
    このため張良と韓信は無理に攻めず包囲しての兵糧攻めを行い、楚軍を崩壊させた。
    項羽は残った少数の兵を伴い包囲網を突破したが、楚へ逃亡する事を潔しとせず、途中で漢の大軍と戦って自害した(垓下の戦い)。
    遂に項羽を倒した劉邦はいまだ抵抗していた魯を下し、残党たちの心を静めるために項羽を厚く弔った。
    紀元前202年、劉邦は群臣の薦めを受けてついに皇帝に即位した。
    論功行賞をした際、戦場の功のある曹参を第一に推す声が多かったが、劉邦はそれを退けて蕭何を第一とした。
    常に敗れ続けた劉邦は、蕭何が常に用意してくれた兵員と物資が無ければとっくの昔に敗れていた事を知っていたのである。
    また韓信を楚王に、彭越を梁王に封じ、張良に3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断った。
    また、劉邦を裏切って魏咎に付くなど挙兵時から邪魔をし続けながら最後はまたぬけぬけと漢中陣営に加わり、劉邦が殺したいほど憎んでいた雍歯を真っ先に什方侯にした。
    これは、論功行賞で不平を招いて反乱が起きないための張良の策で、他の諸侯に「あの雍歯が賞せられたのだから、自分にもちゃんとした恩賞が下るだろう」と安心させる効果があった。
    劉邦が家臣たちと酒宴を行っていた時、劉邦は「わしが天下を取って、項羽が天下を失った理由を言ってみなさい」と言った。
    これに答えて高起と王陵が「陛下は傲慢で人を侮ります。これに対して項羽は仁慈で人を慈しみます。しかし陛下は功績があったものには惜しみなく領地を与え、天下の人々と利益を分かち合います。これに対して項羽は賢者を妬み、功績のある者に恩賞を与えようとしませんでした。これが天下を失った理由と存じます」と答えた。
    劉邦は「貴公らは一を知って二を知らない。策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することではわしは張良に及ばない。民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させることではわしは蕭何に及ばない。軍を率いて戦いに勝つことではわしは韓信に及ばない。わしはこの三人の英傑を見事に使いこなした。しかし項羽は范増一人すら使いこなせかった。これがわしが天下を取った理由だ」と答え、その答えに群臣は敬服した。

    不倫
    粛清
    その年の7月、燕王臧荼が反乱を起こし、劉邦は自ら親征してこれを下し、幼馴染の盧綰を燕王とした。
    その中で劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。
    特に韓信・彭越・英布の三人は領地も広く、百戦錬磨の武将であり、最も危険な存在であった。
    ある時「韓信が反乱を企んでいる」と讒言する者があった。
    群臣たちは韓信に対する妬みもあり、これを討伐するべきだと言ったが、陳平は軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険であると説き、だまして捕らえることを提案した。
    劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信も来るようにと言いつけ、匿っていた鍾離昧の首を持参した韓信がやって来た所を虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。
    翌年、匈奴に攻められて降った韓王信がそのまま反乱を起こした。
    劉邦はまた親征してこれを下した。
    翌紀元前200年、匈奴の冒頓単于を討つために更に北へ軍を動かした。
    しかしこの戦いで劉邦は匈奴の作戦に引っかかり、包囲された。
    陳平の策で命からがら逃げ出して、匈奴を兄・漢を弟として毎年貢物を送る条約を結び、以後は匈奴に対しては手出しをしない事にした。
    紀元前196年、韓信は反乱を起こそうと目論んだが、蕭何の策で捕らえられ、誅殺された。
    この時劉邦は遠征に出ていたが、帰って韓信が誅殺された事を聞かされるとこれを悲しんだ。
    同年、彭越は捕らえられて蜀に流される所を呂雉の策謀により誅殺され、一人残った英布は反乱を起こした。
    劉邦はこの時体調が良くなく太子(恵帝)を代理の将にしようかと考えていたが、呂雉らにこれを諫められ、親征して英布を下した。
    この遠征から帰る途中で懐かしい沛に立ち寄って宴会を行い、この地の子供120人を集めて「大風の歌」を歌わせた。
    大風起こりて雲飛揚す(大風起兮雲飛揚) 威海内に加わりて故郷に帰る(威加海内兮歸故ク) いずくむぞ猛士を得て四方を守らしめん(安得猛士兮守四方) そして沛に永代免租の特典を与え、沛の人たちから請われて故郷の豊にも同じ特典を与えた。
    しかし英布戦で受けた矢傷が元で更に病状が悪化し、翌紀元前195年に呂雉に対して今後誰を丞相とするべきかを言い残して死去した。
    この際、自らの死期を悟った劉邦は、「死後どうすればよいのか」と問う呂雉に対し、「(丞相・相国の)蕭何に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」と言い、更に何度も「その次は?」と聞く呂雉へ「その次は王陵が良いだろうが、愚直すぎるので陳平を補佐とするとよい。だが陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」と言った。
    そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言っている。
    果たしてこの遺言は、のちにすべて的中することになる。
    劉邦の人物眼の確かさが伺われる。
    死後、太子が即位して恵帝となったが、実権は全て呂雉に握られ、呂氏の時代がやって来た。
    しかし呂雉の死後、周勃と陳平により呂氏は粛清され、文帝が迎えられ、文景の治の繁栄がやってくる。

    Yahoo!検索